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スイスはどのようにして現在のスイスになったのか?

スイスの歴史

スイスは、支配者の異なる領地が何世紀もの時間をかけて次第にまとまり、自治体のゆるやかな同盟から連邦国家へと発展した。

スイスは紀元前から異民族の侵入と支配を受け続け、神聖ローマ帝国の建国後はその支配下に置かれた。だが実際は、各地に残る有力諸侯が協力しながらそれぞれの支配地を治めていた。中世になると皇帝からの独立を目指し、これらの地域の間で同盟が結ばれた。

スイスの歴史の中では、宗教改革とこれに続くカトリックとプロテスタントの争いが大きな転機となった。

その後、スイスはナポレオンが統一し、ヘルヴェティア共和国となる。現在の連邦国家が出来上がったのは1848年。

被支配の歴史

現在のスイスの領土にあたる地域には、およそ15万年前から人類が住んでいた。紀元前2世紀末ころには、中部平原にケルト族系住民のヘルヴェティイ族(Helvetii)が、東部にはアルペン族のラエティ人(Rhaeti)が住んでいた。

紀元前58年、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)率いるローマ帝国軍が、スイスの中部平原を離れフランス西部に移動中のヘルヴェティイ族を阻止。

カエサルの死後、紀元前15年に皇帝アウグストゥスのローマ軍が東部のラエティ人を征服し、今日のスイスに相当する全領土をローマ帝国の支配下に収めた。

 紀元後3世紀はローマ帝国の混乱と分裂が起き、ゲルマン人の一部族であるアレマン族がスイスの中部平原へと南下。4世紀にはローマ帝国の統治能力が低下し、同じくゲルマン人の一部族であるブルグント族がスイスにブルグント王国を築いた。5世紀初期、ローマ帝国はゲルマン諸部族の隆盛によってスイスから撤退し、アルプス山脈の南へと引き上げた。

6~10世紀の間、フランク王国、シュヴァーベン公国、ブルグント王国など、統治国の興亡によってスイスの支配者と被支配地域が変化した。その間に封建制度が発達。修道院ではラテン語の習得が受け継がれ、新しい農法が開発された。

盟約者団の成立と拡大:13~17世紀

1291年、ウーリ、シュヴィーツ 、ウンターヴァルデンの原始3邦がハプスブルグ家を含む封建諸侯の支配に抵抗し、自由と自治を守るための相互援助を目的とした永久同盟(リュトリの誓い)を結び、スイス盟約者団を結成。これが現在のスイス連邦の原型となった。

伝説によると、1307年ウィリアム・テルはハプスブルグの代官に、息子の頭の上にのせたリンゴを弓矢で射抜くよう命令され、その後テルは代官を殺害する。これがスイス発祥伝説の基になっている

同盟結成後、ハプスブルグ家は盟約者団と軍事衝突をするが、敗退が続き次第に力を失っていった。
15世紀末シュヴァーベン戦争でハプスブルク家出身の皇帝を破り、盟約団は神聖ローマ帝国から離脱して事実上の自治権と独立を獲得した。その後、領土拡張を試み16世紀にフランスやイタリアと戦ったが敗北し、中立へと方向転換を行った。

宗教改革:16世紀

16世紀に西ヨーロッパ全域で、教会の体制改革、いわゆる宗教改革が行われた。キリスト教会はカトリックとプロテスタントの二つに分裂し、厳しい対立が起きた。宗教改革は、都市と農村の間にも対立を生み、スイスにも暴動が発生し混乱を招いた。

スイス国内では、1523年にウルリヒ(フルドライヒ)・ツヴィングリ(1484―1531)がチューリヒで宗教改革を始める。ツヴィングリは、聖書を唯一の信仰の源と考え、教会や政治権力からの完全な独立、神の公理に適合した宗教改革の推進を呼びかけた。また、プロテスタントの指揮による新しい盟約者団の形成を目指したが、1531年に中央スイスで起きたカトリックとの戦闘で戦死した。

1536年、自国の教会による迫害から逃れてきたフランス人ジャン・カルヴァンがジュネーブで宗教改革を開始した。カルヴァンは、その厳しい理念で市民の不満を買いジュネーブを離れたが、1541年に支持者に呼び戻され、改革運動を再開した。その際カルヴァンは政府を回り、「勤勉」と「豊かさは神の恵みであること」を説いた。また、科学と芸術を奨励し、手工業と貿易、資本主義社会の形成を促進した。

17世紀のヨーロッパでは、神聖ローマ帝国を頂点とするカトリックの地域とその他の地域が対立し、三十年戦争がヨーロッパ全土を席巻した。スイスは最終的に中立の立場を維持した。1646年、ウェストファリア条約によって三十年戦争が終結。ヨーロッパの列強は、盟約者団が参戦せず中立を維持したことを評価し、スイスの独立を正式に承認した。これによってスイスの独立は国際法上承認された。

連邦国家成立への道:18~19世紀

フランス革命の波がスイスにも押し寄せ、1798年、スイス国内の紛争をきっかけにフランス革命軍が侵攻、スイスを占拠した。中央集権制のヘルヴェティア共和国の誕生だ。さらに、スイスは史上初めて中立を放棄し、フランス軍の傘下に組み入れられた。

しかし、新共和国は中央集権主義派と連邦主義派に分裂し、クーデターが多発。そのためナポレオンは1803年に「調停法」を発効し、スイスの中立を保障した新憲法を制定した。

1812年、ナポレオンが失脚すると、スイスの世論は反ナポレオンへと一転。州憲法も復活し、革命以前の体制に戻った。また、1815年に「同盟規約」が制定され、再び各州にはほぼ完全な主権が認められた。また、同年ウィーン会議でスイスの永世中立がヨーロッパの列強に承認された。

1830年にフランスで起きた七月革命は、スイスにも影響を与え、保守派の邦と進歩派の邦の間に対立が起きた。保守派は、ヘルヴェティア共和国時代の特権階級制度の復活を望み、州の権限の拡大を求める分権主義を主張した。一方進歩派は、すべての国民に平等の権利が与えられる制度の確立を目指していた。
両者の対立はその後深刻化し、戦争に発展。保守派が結んだ分離同盟は敗退し解散した。

1848年新憲法が制定され、中央政府を持つ連邦国家が成立した。スイスは民主主義に基づいて議員が選ばれる国民議会と全州議会の二院制、および連邦内閣制度を導入し、それまで州が負っていた義務や責任など大幅な権限が国に移った。

1863年、イギリスの実業家トーマス・クックが、「宿泊費・飲食代などすべて込み(all included)」方式のスイスツアーを企画。現代的な観光旅行が始まった。

1868年に始まった第1バチカン公会議で教皇不可謬説{きょうこう ふかびゅうせつ}を宣言。その後1871年に40万人以上のスイス人カトリック教徒が教会を離れ、復古カトリックとして知られる新しい宗派を設立。

20世紀

1914~1918年の第1次世界大戦中、スイスは中立を維持。

1939~1945年の第2次世界大戦中も中立を維持。

1971年の国民投票で(男性が!)婦人参政権を承認。

1979年の国民投票により、ベルン州北部のジュラ地方がベルン州から分離し、ジュラ州として独立。ベルン州の大半はドイツ語圏のプロテスタントだったが、ジュラ地方の北部はフランス語圏のカトリックだったため、長年にわたる対立があった。

※このコンテンツは2015年8月時点のものです。今後は更新されません。

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